前回の日記にて、カステラはカスティーリャ王国由来のお菓子で、ポルトガル人が南蛮貿易の際に日本に伝えたと説明しました。
では、どこの誰にカステラを伝えたのか?
当時の資料は正確な記述がほとんど残っておらず、一部では
1592年に、当時長崎の役人であった「村山等安」という人物が豊臣秀吉に献上したことが始まりであったとの記述があります。
当時、南蛮貿易の際に訪れる宣教師が、キリスト教を普及させることにより信者を増やすことで、その国を占拠し支配下に置くという図式がありました。
信長の時代では、既存の宗教に対抗すべくキリスト教の普及に前向きでありましたが
秀吉の時代になると、徐々にヨーロッパ諸国の戦略が明らかになってきました。
1587年、秀吉は九州平定により島津氏を降伏させると、長崎がポルトガル人の教会領となっている事に激怒し、自身の直轄の地としました。
その後、前述の村山等安が秀吉の朝鮮出兵の際にお礼参りをする事になり、その際に南蛮人から教わったカステラを献上したと言われています。
秀吉はカステラをとても気に入り、後に等安を長崎の代官に任命。
秀吉という後ろ盾を得て、地位を固めた等安が献上した事がきっかけで、カステラは長崎に広く普及し、今日の「長崎カステラ」に至ると言われています。
このような背景から、長崎には多くのカステラ屋が誕生しました。
有名な「カステラ御三家」としては「福砂屋」「文明堂」「松翁軒」などが挙げられます。
ただ、長崎を中心に日本に伝わったカステラが日本全土に伝わり、広く普及するのはまだ少し先の話になるのでした。
〈まとめ〉
①1592年、当時長崎の役人であった「村山等安」という人物がカステラを朝鮮出兵前に豊臣秀吉に献上した。
②秀吉はカステラをとても気に入り、献上した村山等安が後に長崎の代官に任命される。その影響で長崎にてカステラが広まっていった。
③長崎カステラの中でも、カステラ御三家と言われる「福砂屋」、「文明堂」、「松翁軒」が存在する。